鹿児島地方裁判所 昭和40年(行ウ)1号 判決 1967年2月27日
原告 樋口タキ
被告 鹿屋労働基準監督署長
訴訟代理人 大道友彦 外三名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告は、「被告が昭和三八年四月五日付鹿屋監発第一四二号により原告に対してなした遺族補償費および葬祭料不支給決定を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告指定代理人らは主文同旨の判決を求めた。
原告は請求原因として次のとおりのべた。
一 原告の亡夫樋口典秋は日本通運株式会社鹿屋支店末吉営業所に運転手として勤務していたが、昭和三六年一二月六日朝末吉駅に貨車積みしてあつた硫安一四〇叺を五八年式ニツサンUG五八二型トラツクに積み、南之郷農業協同組合高岡支所まで運搬し、同所付近で故障した右トラツクの修理を終えた後、同日午前一一時ごろ荷卸しのため荷台に上がろうとしたとき倒れ、翌七日午後一時二〇分蜘蛛膜下出血により死亡した。
二 しかして、右典秋の死亡は業務に起因することの明らかな疾病によるものであつた。
1 右同人は発病前連日のごとく長時間の時間外重労働に従事し、精神的肉体的疲労が累積していた。すなわち、同人は昭和三六年一一月中はほとんど毎日一時間ないし五時間の時間外労働に従事し、その合計は七三・五時間であつた。また同年一二月に入つてからも一日平均三時間の時間外労働を行なつていた。
2 発病当日同人が命ぜられた任務は、積載容量五トンの前記トラツクに右容量をはるかに超過する硫安一四〇叺(一叺は六〇キログラム入り)を積んで右末吉駅から悪路を約一三キロメートル走つて前記南之郷農業協同組合高岡支所まで運搬するという重作業であり、このため平素から責任感の強かつた同人は右走行の間焦燥と疲労とのため異常な興奮状態にあつた。そのうえ、右高岡支所付近で前記トラツクのラジエーター周辺のラバーホースが破れ蒸気が吹き出す故障が発生し、同人は前記の困難な作業を果たした後休むひまもなく右故障修理を行なうことをよぎなくされたが、当日は極めて寒い日であつたので、過熱状態のラジエーター周辺の前記修理作業は同人に対し非常に悪い影響を与えた。
3 同人の死因は蜘蛛膜下出血であるが、もし同人に前記のような長時間の時間外労働による負担の累積がなく、積載容量をこえる荷物の運搬という重作業が課されなかつたなら、同人は本件疾病にはかからなかつたのであるから、本件疾病は業務に起因する疾病である。
三 かりに右典秋が被告主張のごとく従前から高血圧症にかかつていたとすれば、信義則上訴外日本通運株式会社は同人に対し過度の時間外勤務あるいは前記発病当日のごとき重作業を課すべきではなかつたのである。しかるに同会社は相当高度の高血圧患者であることを知りながら同人に困難な作業を課したわけであるから、その作業の途上倒れた同人については、その作業をしなくとも蜘蛛膜下出血にかかつたということが明白に認められない限り、業務上の災害により倒れたものと認定すべきである。かく解することが公平の観念に合し、労働基準法や労働者災害補償保険法の基本思想に合するからである。
四 原告は被告に対し、昭和三七年二月二二日右死亡は労働者災害補償保険法の業務上の災害によるものであるとして遺族補償金等の支給請求をしたが、被告は右死亡は業務上の災害と認めることができないとして、同三八年四月五日遺族補償費および葬祭料の不支給決定をした。そこで原告は同年五月六日鹿児島労働者災害補償保険審査官に対し右決定の取消を求める審査請求をしたが、同審査官は同年九月二八日右審査請求は理由がないとして棄却したので、さらに原告は同年一一月一三日労働保険審査会に再審査請求をしたが、同三九年一一月一六日同審査会も右再審査請求は理由がないとして棄却する裁決をしたので、本訴におよんだ。
被告指定代理人らは主文同旨の判決を求め、答弁および主張として次のとおりのべた。
一 原告主張の請求原因一および四の各事実は認める。
二 同二の1の事実中、前記樋口典秋の時間外労働時間が原告主張のとおりであつたことは認めるが、そのため同人に精神的肉体的疲労が累積したという事実は否認する。
同人の生前の一日平均時間外勤務時間は、昭和三六年九月一・六時間、同年一〇月三・二時間、同年一一月三・五時間、同年一二月(ただし発病の前日まで)三時間となつていて相当の時間外勤務があつたことは事実であるが、この程度では他の運転手と比較して特に過激な業務に従事していたものとは認められず、かりに疲労の累積があつたとしても蜘蛛膜下出血の疾病を招来せしめる程強度のものであつたとは認め難い。
三 同二の2の事実は否認する。
硫安一叺は六〇キログラム入りではなくて四〇キログラム入りである。また訴外日本通運株式会社が右典秋に課した仕事は原告主張のような過度の精神的肉体的負担を伴うような重作業ではなかつた。
四 同二の3および三の各事実は否認する。
前記典秋は生前相当高度の高血圧症にかかつており、昭和三四年一二月二二日最高血圧二一〇ミリ―最低血圧一一〇ミリ、同三五年一二月一〇日最高血圧一九六ミリ―最低血圧一一六ミリ、同三六年一月一四日最高血圧二三〇ミリ―最低血圧一一〇ミリとなつていて、死亡時まで高血圧の症状が快方に向つていたと認めるべき資料はないから、同人を死亡するにいたらしめた蜘蛛膜下出血は既往の高血圧症を素因として偶発したものと認めるのが相当である。
一般に疾病は、発病の原因が負傷の場合のように単純なものではなく、本人の体質的素因、日常生活の状況、環境衛生の状況等複雑な原因がからみあつており、業務と発病の因果関係を明らかにすることは極めて困難である。そこで法は、労働者災害補償保険法第一二条第二項、労働基準法第七五条第二項、同法施行規則第三五条第一号ないし第三七号により、一定の原因による特定の疾病については業務と発病との間の因果関係を一応推定することとし、右第一号から第三七号までに列挙された場合以外の疾病については、同規則同条第三八号によつて業務に起因することが明らかな場合以外は業務と発病との因果関係はないものと推定する建前をとつているのである。ところで前記典秋の死因である蜘蛛膜下出血は同規則同条第一号ないし第三七号のいずれにも該当しないから、同条第三八号にいうところの業務に起因することが明らかな場合でない限り災害補償の事由となる業務上の疾病にはあたらないと解されるところ、前述のとおり同人の死亡は既往の高血圧症を素因として偶発したものであり、その他の点を調査しても前記「業務に起因することの明かな疾病」によるものとは認められず、したがつて被告のなした本件不支給決定は適法妥当なものであるから、原告の右決定の取消を求める本訴請求は理由がない。
証拠<省略>
理由
一 原告の亡夫訴外樋口典秋が日本通運株式会社鹿屋支店末吉営業所勤務の運転手であり、原告主張の日時ごろその主張のような荷物の運搬等の仕事に従事中倒れ、蜘蛛膜下出血により昭和三六年一二月七日午後一時二〇分死亡したこと、原告が被告に対しその主張の日時ごろその主張のように遺族補償金等の支給請求をしたが、被告が右典秋の死亡は業務上の災害と認めることができないとして不支給決定をしたこと、そこで原告がその主張のように鹿児島労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが理由がないとして棄却されたため、さらに労働保険審査会に対し再審査請求をしたが同審査会も同じく理由がないとしてその請求を棄却する裁決をしたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
二 本件疾病以前の前記典秋の既往疾病の存否について
いずれも成立に争いのない乙第二号証、同第九号証、同第一七号証ならびに証人浜田博夫の証言を総合すると、右典秋(大正四年一〇月二三日生、死亡時四六歳)は昭和三四年一二月二二日ごろから血圧がかなり高く(四六歳の男子の正常血圧は最高血圧一三〇ないし一四〇ミリ、最低血圧七〇ないし八〇ミリ)、同日勤務先の日本通運株式会社鹿屋支店で行なわれた定期健康診断では、勤務中であつたとはいえ、最高二一〇ミリ、最低一一〇ミリあり、またそのころ浜田博夫医師に測定してもらつた血圧は最高一九八ミリ最低九六ミリあつたため、翌三五年一月三〇日ごろまで同医師の治療を受けたこと、同人の同年六月二五日の血圧は最高一六六ミリ最低一〇八ミリであり、同年一二月一〇日の血圧は最高一九六ミリ最低一一六ミリであつたこと、同三六年一月一四日勤務先の定期診断では血圧が最高二三〇ミリ最低一一〇ミリあり診断記録に要注意と記載される程であつたため同日から同年二月一五日まで前記浜田方に通院し降圧剤の投与を受ける等し、同二月一五日以降本件死亡の日にいたるほぼ一〇箇月の間医師の治療を受けたことがなかつたこと、同年七月二六日に勤務先の定期健康診断を受けたがその際血圧を測定することがなかつたこと、同人の高血圧症は治療する間は血圧が下がるけれども治療を中断すると再び上昇する可能性をもち、いわゆる本態性高血圧症となつていたこと、同年一二月六日同人の倒れた直後における血圧も最高二〇〇ミリをこえ、最低九〇ないし一〇〇ミリ以上であつたこと、以上の事実が認められる。
以上認定の事実によれば右典秋は本件疾病で死亡する前に、すでに本態性の高血圧症という基礎疾病を有していたものと判断するに難くない。もつとも、前顕乙第九号証、成立に争いのない同第一〇号証、「右のとおり録取」以下の部分については成立に争いがなくその余の部分について証人八木辰二の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第一二号証および同証言ならびに原告本人尋問の結果によれば、右典秋は昭和三六年四月朝日生命の生命保険に加入しており、そのころ同人の血圧は通常人のそれにかなり近い程度に低下していたことが認められるが、右事実をもつても前記認定事実をくつがえすに足りず、右保険加入当時の同人の最高血圧が浜田博夫医師測定の結果一四〇ミリであつた旨の原告本人の供述および乙第九号証中の供述記載は前顕乙第一七号証によつて認められる同人が保険嘱託医となつていない事実ならびに前顕証人浜田博夫の証言に照らしたやすく措信し難く、その他前記認定に反する証拠はない。
三 前記典秋の業務とその死因である蜘蛛膜下出血との相当因果関係の存否について
1 昭和三六年一一月中における右典秋の時間外労働時間が合計七三・五時間に達していたこと、同年一二月に入つてからも一日平均三時間の時間外労働に従事していたことは当事者間に争いがない。
しかし、前顕乙第一〇号証、同第一二号証、いずれも成立に争いがない同第一一号証、同第二〇号証の二によれば、右典秋の勤務していた末吉営業所は毎年一〇月から一二月が最も繁忙期であつたこと、同人の昭和三六年九月一日から本件発病直前の同年一二月五日までの一日平均運転キロ数は九七・三キロ、一日平均拘束時間は一〇・九時間、一箇月平均公休日数は――同人は勤務熱心で公休日にも車の点検のためわざわざ出勤するようなこともあつたが――五・三日であつたこと、他方運輸省自動車局の全国自動車運転者実態調査によれば昭和三六年度における同人のごとき区域トラツク運転手の一日平均運転キロ数は一〇六・三キロ、一日平均拘束時間は九・五時間、一日平均労働時間は七・九時間、一日平均運転時間は五・三時間、一ケ月平均公休日数は四・二日であつたことが認められ、他に右認定事実をくつがえすに足りる証拠はない。右認定事実によれば、同人が他の区域トラツク運転手に比較して特に過激な業務に従事していたと認めることは困難である。
2 成立に争いのない乙第二号証、前顕乙第一〇ないし第二号証および証人浜田博夫、同石塚熊夫、同豊留兼行、同西田実、同神宮司キクエの各証言ならびに原告本人尋問の結果によれば次のとおりの事実を認めることができ右認定事実に反する証人八木辰二の証言は措信せず、他に右認定事実をくつがえすに足りる証拠はない。
右典秋は昭和二四年一一月九日臨時運転手として前記鹿屋支店に採用されて同二六年八月二日職員となり、入社以来死亡当時にいたるまで勤務し、運転歴一二年のベテランであつたこと、同人が昭和三〇年ごろから勤務した末吉営業所は主任八木辰二のもとに合計一二名の従業員がおり、トラツク一台、自動三輪車二台を保有していたが、トラツク運転手は右典秋一人であつたため同人の公休日には岩川営業所から交代の運転手がきていたこと、繁忙期にはトラツクだけでなく自動三輪車も相当程度の時間外勤務を行なつていたこと、同三六年一二月六日は朝からかなりひえこみがはげしかつたが、右典秋は朝八時ごろ出勤し、助手豊留兼行、同西田実とともに、国鉄末吉駅から一叺四〇キログラム入りの硫安一四〇叺を五トン積みのニツサンUG五八年型トラツクに積み込み約一二・三キロ走行して南之郷農業協同組合高岡支所にいたつたこと、その途中の道路はところどころ登り坂があるほか悪路とまではいえないおおむね平たんな道路であること、右高岡支所は高台で風通しがよくかなり寒い場所であつたこと、同所に到着した際右トラツクのエンジンとラジエーターとを連結するラバーホースが破れ蒸気が激しく吹き出した――この故障は運転手としてはたまたま経験する――ため、同人は西田助手に命じて水をラジエーターに補充せしめ蒸気がある程度おさまつて後、約二〇分程かけてビニールテープを開いて故障部分を修理し、その直後倒れ翌日死亡するにいつたこと。
3 右典秋の死因が蜘蛛膜下出血であることは当事者間に争いがなく、同人が生前本態性の高血圧症という基礎疾症を有していたことは前記二で認定したとおりであるところ、本件疾病が労働基準法施行規則第三五条第三八号所定の「業務に起因することの明らかな疾病」に該当するか否かについて判断するに、ここに業務に起因することの明らかな疾病とは、原告主張のごとく単に当該業務がなかつたならば当該疾病がなかつたのであろうと考えられるような条件的な関係が認められるだけでは足りず、当該業務が当該疾病の有力な原因であり両者の間に相当な因果関係があることが認められるものでなければならない。すなわち、災害医学的見地から労働災害と評価できる程度に強度な身体的精神的努力をした場合、強度な身体的精神的疲労の累積をもたらす業務が先行していた場合、突如として激しい精神的シヨツクに打たれた場合等当該業務が蜘蛛膜下出血を惹起するため相当程度有力な原因となつたことが認められてはじめて業務と疾病との間に相当因果関係があるものとしてこれを業務に起因して発病したものと認めることができるものと解すべきである。
ところで前記認定事実によれば、右典秋の時間外勤務による疲労の累積も通常の運転手に比較して特に強度であつたものとは認めがたく、一方証人久木原忠満の証言によつて成立を認めうる乙第一四号証、前顕証人浜田博夫の証言によつて成立を認めうる同第一五号証と右証言を総合すれば、ラバーホースの修理、運転等事故当日の業務内容ならびに当日の寒冷度等の気象条件が右典秋のもつていた高血圧症を悪化させて蜘蛛膜下出血を誘発する一因となつた可能性のあることはこれを認めることができるにしても、またこれら証拠によれば高血圧症患者の場合日常起居の間に些細なことを誘因として同様の症状を発現する可能性のあることが認められるので、前記認定のとおり同人が本態性高血圧患者であつたことを考慮するとき、いまだ右業務、気象条件等が本件疾病を引きおこすための有力な原因となつたとまで認定することは困難であり、結局他に特段の立証のない本件においては右典秋の当該業務と蜘蛛膜下出血の疾病との間には相当因果関係があつたと認めることができない。
四 訴外日本通運株式会社の労務管理上の瑕疵の存否について
前記典秋は昭和三四年一二月ごろから血圧がかなり高く、治療等の結果通常人程度に降下する時期もあつたが、同三六年一月には最高血圧が二三〇ミリあり右訴外会社の健康診断の記録にも要注意と記載されることがあつたことは前記二で認定したとおりであるが、本件全証拠によるも同年二月中旬以下本件死亡の日にいたるまで、右訴外会社側において、同人が作業に従事しては生命に危険である程度に血圧が高く、かつ、その事実を認識しながらあえて前記認定のごとき時間外勤務等を命じさせていたような事実を認めることはできない。
かえつて、前顕乙第一二号証および前顕証人八木辰二、同豊留兼行の各証言を総合すれば、前記典秋は同三六年二月ごろまでは時々自分は血圧が高いともらしていたが、その後は元気で血圧もある程度通常に近く下がつたことがあり、特に疲労がはげしいとか身体の具合が悪いとか使用者側にうつたえることもなく、運転業務だけでなく助手とともに貨物の積み卸し作業をし、積み卸し作業を手びかえるようなことも全くなかつたことが認められ、右の認定事実に前記二および三において認定の諸事実をあわせ考えると、使用者側の右訴外会社に労務管理上の瑕疵があつたと認めることは困難である。
五 以上の理由で右典秋の死因をなした本件疾病は、労働者災害補償保険法第一二条、労働基準法第七五条第二項、同法施行規則第三五条第三八号所定の「業務に起因することの明らかな疾病」とはいえず、したがつて労働者災害補償保険法第一条、第一二条第二項、労働基準法第七九条に示された業務上の事由による死亡にあたらないといわなければならない。
してみれば、右典秋の死亡を業務上の事由によるものと認めることができないとして原告に対する遺族補償費および葬祭料の不支給を決定した被告の本件決定は適法であつて、右決定の取消を求める原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 田坂友男 横畠典夫 三井善見)